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「無理をしない」という無理 ~臨床の中での実感~

 最近のメンタルヘルスに対する社会的理解の促進から、気持ちの落ち込みや活動性が低下していくようなとき、「無理をしないで」という言葉がけが大事であることが多くの方にとって周知のこととなっていますし、私自身も日々の臨床の中で目の前にいる方の「辛さ」の所在を理解しようとしていくとき、この方にとっての「無理」はどこにあるのだろうかと考えていくことがあります。
 私自身それ自体にほとんど疑問を抱くことなく患者さんと相対してきました。そんな中「無理しないこと」が目標になることで「窮屈さ」を維持していくことがあることを意識させられる体験がありました。
 時に我々が「無理をしないこと」には、「能動性」を押さえ込む可能性がある・・・そんな体験です。今回は私としてはあまりお話することが少ないのですが、「臨床での体験」を基にお話できればと考えています。
「無理をしないこと」が「最善」とは言えないかもしれません。
 硬い言葉では「個別性」の話とも呼べるでしょうか。

 ご存知の方も多いと思いますが、心理士の仕事は患者さんが問題と感じている現実や状態について共に考え、その現実が目の前の人にとってどんな意味合いがあるのかということや、どのように自身がしていくこと(なっていくこと)で、その現実に対して自身らしく取り組んでいくことができるのか等を形成していくことです。
 それは、目の前の方が「主体」となっていく過程を共に作っていくことでもあり、ここまでのブログのテーマとして何度も取り上げている「やり取り(コミュニケーション)」を通してのみ、つまり対人及び対象関係、社会的関係の中でのみ浮かび上がってきます。このことについては、前述してあります。
 
 これらのことを考えていくと「落ち込み」=「無理をしない」という関係を想定すること自体が「やり取り」を欠いている可能性が強まるわけですが、時にそのことが自分の中を離れていきそうになることがあります。
 臨床の中では、「やろうと思ってやったのだけど、動きすぎちゃって・・・」「楽しみにして行ったのだけど、疲れたからやっぱり行っちゃダメだったんだな・・・」などとお話される方がいらっしゃいます。
 これらの中には 「やりたい」 という個人 と 「疲れて大変だった」という個人 の二つの側面があり、そのどちらも個人の「主体」であることを我々は容易に理解できます。この時に「無理をしない」というメッセージを送るのか、「やりたいあなたがいる」というメッセージを送るのか、「その両者がある」というスタンスをとるのかは、その方とのそれまでの「やり取り」や「理解」が決定します。

 当然の文脈ではありますが、最近の臨床の中で 「動いていると調子がいいのだけど、その後に罪悪感もあって・・」という語りを聞いて、私の中で「ハッと」体験したことです。

 私の中にも 「落ち込み」= 「無理をしない」 という フォーマットがどこかできあがっている面があるのだと感じます。

 「個別的」な「主体」としての目の前の方々と「やり取り」を行っていくこと。

 ・・・・人を大事にしていくときに不可欠な要素かもしれません。